AZ-OKABE

A&Z 岡部パソコン教室の発信です

エッセイ 爆発医者  岡部 朗  (月刊へら鮒1993年1月号より)

不整脈多く、再検査必要あり」
これは、先日受けた人間ドックの
結果である。
不整脈は、健康人でもよくあるも
のであるが、ただ私は、心臓には自
信があった。少々ハードに体を酷使
しても、強心臓が核となって、私の
健康を支えてくれるものと、生まれて
この方、思い込んでいた。
その健康の核が、弱音をはいてい
るというのである。それだけに精神
的なショックは大きく、一気に私の
気持ちは憂うつになった......。


気がつくと診察室の中にいた。例
の回る椅子に座らされており、私の
前には白衣を着た男が対座していた。
頭がばかに大きく、毛の濃い男で、
太い黒ぶちの眼鏡をかけていた。
眼鏡の奥から、鋭い目がそそがれ
ていて、いまにも立ち上がってなぐ
りかかりそうな勢いである。
その男は、大きな声で言った。
「君、嘘をついちゃいかんよ。心電
図をもう一度確かめてみた。君の言
うような仕事の疲労の蓄積による不
整脈なんかでは決してないよ」
私は恐る恐る聞いた。
「それでは一体、何が原因だとおっ
しゃるので……」
「この不整脈は、いわば瞬間的に、
自分の運動能力、ないしは精神集中

能力を超えたことによる、心臓への
負担によるものだ」

医者はまくしたててから更に射る
ような目を私に注いだ。
「君は、仕事以外に何かハードなこ
とをしているだろう」
「図星です。ヘラブナ釣りをしています」

「だろう、だろう」
医者は急に機嫌よくなった。
「して、運動として、いわばヘラブ
ナ釣りという行為の中で、どれが最
も激しい運動かね」

私はボンヤリした頭で考えた。
「そうですね。ヘラブナ釣りには、
合わせという行為があります。魚が
エサを食った時、ウキに反応が現わ
れるのですが、その瞬間に竿を上げ
るのです」
「どのように上げるのだ」
私は右手を前に突き出し、教科書
どおりの突き合わせをしてみた。
それを見た医者は、みるみる顔が
赤くなった。口びるが紫色に変化し
かけた時、けたたましい声が発せら
れた。
「嘘をつくな!」

私は身をすくめた。
「そんな合わせで心臓が悪くなるか!」

私はやむなく白状した。
「すみません。嘘です。実はこのように」
私は医者の前で、いつものような、
思いっきり水面をたたく 「必殺二段
合わせ」を試みた。
「そうだ!それだ!それが原因だ!」
医者は興奮して言った。そしてや
や興奮が収まってから、
「運動はこれで理解できた。次は神
経だ。運動だけでは、こんな不整脈
は現われん。合わせる時の精神状態
はどんなだ」
「精神状態?。精神状態と言いまし
ても、ウキが動くので、〝しめた"と
思って合わせるだけですから」
医者はまたも見るまに顔を赤くし
た。
「嘘をつくな!」
二度目の怒声が診察室にこだまし
た。
「はい、はい、白状します。白状致
します。実は私はウキに全神経を集
中しています。魚が食った信号、こ
の信号は、私の快楽の接点、いわば、
自然の法悦の接点なのであります。
これには言い知れぬ感動があります。
私は単純バカですから、この感動が
人一倍強く、心臓をもみつぶすかの
ような感情に襲われます。私は二段
合わせをしてお見せしましたが、実
は三段合わせ、四段合わせをしても、
この感動を補うことができないの
です。ことに野釣りなどの一回目の
アタリなど、10段合わせ、 20段合わ
せをして、心の感動に報いたいと思
っているくらいです。それともう一
つ白状致します。私は玉網に魚を入
れる時、この時ほど幸福を感じるこ
とはありません。私は幸福のあまり、
竿を立て、玉網を水面につける、い
わば手をハの字にした時に、目をむ
く癖があります。これも多分に心臓
を悪くしているに相違ありません」
「よく言った。よく白状した。気が
楽になったろう。苦しいにもかかわ
らず、正直に言ったことは非常に立
派だ」
私は苦しいとも、楽になったとも
思っていないので、齢がいもなく照
れてると、
「よし、君の正直に免じて、一つ特
別の検査をしてやろう。いいか、こ
の検査は特別だから、私の気持ちに
心から感謝しなければならんよ。こ
れに耐えると君が健康であることが
証明される」
と言うなり、大きな深呼吸を始め
た。その深呼吸は長い長いもので、
5分、10分と続き出した。
「スーーー!」
これだけ空気を吸い込めば、さぞ
かし胸が膨らむかと思いきや、何と
顔が、顔だけが、見るまに大きくな
ってきたのである。しわの入った顔

の皮膚が次第に張ってきて、徐々に
薄くなり、皮膚が赤くなってきて、
とうとうかけていた眼鏡が破れ飛ん
だ。
顔は更に大きくなり、2倍ほどに
なった時、恐怖していた私も、顔を
近づけた。
「先生!だいじょうぶですか?」
言った矢先、 思いっきり閉じられ
ていた医者の口が、顎の付け根まで
割れ、200ホンを超すかのような猛烈
な声が、診察室に響した。
「うおー!」


私はびっくりして飛び起きた。起
きると同時、周りをきょろきょろ見回
した。何とあのすさまじいショック
検査に耐えたのだ。心臓は力強く脈
打ち、体の奥からもりもり力が湧い
てくる。ふと時計を見る。 7時10分
を指していた。
家内は、私の横で、週末の睡眠を
むさぼっている。
私は服を着て、家を飛び出した。
三山木新池に着いたのが8時10分
であった。
道具を担いで三号桟橋に入る。道
具をセットしていると、吉川正幸氏
がにこにこしながらやって来た。
「道具は?」
「今日、車を工場に持っていくんで
車検ですから」
吉川氏は当地の常連で、最近、特
に親しくなった。昼から一緒に釣ろ
うと約束して別れた。
第一投が8時40分。10分、20分と
エサ打ちを繰り返すが、ウキに変化
は見られない。
三山木は、10月に入って釣りが更
に難しくなった。もちろん、エサは
両ダンゴであるが、なかなか落とす
アタリを出してくれない。 最近、青
木雅人氏に教えてもらった。
「今の時期、下バリにややねばるダ
ンゴ、上バリにやや開くダンゴをつ
けると良く釣れる」
私はこのエサ付けで、最近好調で
ある。この好調がいつまで続くかわ
からないが、 とにもかくにも、 最近
ごきげんである。


一時間ほどすると、調子良く釣れ
出してきた。回りがあまり絞ってい
ないだけに気持ち良い。調子が出て
きたところで、空を見上げた。今日
は天気予報がはずれて、雲一つない
青天である。抜けるような空を見上
げたまま、医者の事を考えた。
「あれからどうなったろう。医者は
あのまま、口が割れて死んでしまっ
たのだろうか? とすると、身を呈
して、私の検査をしてくれたことに
なる」


昼前、吉川氏が道具を担いでやっ
てきた。見ると後から中井範夫氏も
続いている。
吉川氏が左、中井氏が私の右に入
り、三人で競技を始めた。
吉川氏は、オールラウンドをこな
す名手で、今回は8尺のチョーチン
をするとのこと。ランディズ昨年一
位の中井氏は、1mのタナを始めた。
競技となると真剣である。三人が
三人とも、ウキに鋭い視線を向けた。
中井氏がすぐに調子に乗り、入れ
パク。吉川氏も、私も、ぽつぽつ調
子が出てきた。
二時頃、吉田茂氏が、私の側にや
ってきた。吉田氏は、70歳手前であ
るが、何十年に亘って高山ダムに釣
りのロマンを追い求めてきた。彼は、
私の横で、 高山ダムの近況を静かに
語り始めた。
「今年は、あきまへんね。まだ三枚
だすわ(40㎝上)。去年も悪いと思う
ていましたけど、今年はそれ以上に
悪いだす。私ももう年だす」
吉田氏は空を見上げた。
「あと何年、山に登れるか。それを
思うと淋しくなります」
私は高山ダムの青々とした広大な
水面を思った。切り立った山々と、
真っ平らの水面、この対象の美しさ
の中には、人間の老いてしまうこと
を惜しむ気持を、強烈な強さに昇華
する力を持っている。
私は心から、吉田氏が、これから
何年、何十年と山に通える健康を維
持されることを願った。
吉田氏と入れ替わりに、今度は柿
木和彦氏がやってきて、私の横に座
った。氏は電気工事の社長さんで根
あか人間、少しアルコールが回って
いて、いつも以上に口が回る。
全員が全員とも、めいめいウキを
見ている。しかし、気持は話の中で、
釣り談義に花が咲いた。
西の空が赤くなった。みんなの話
を聞きながら、青い空を見上げても
う一度思った。
「医者はどうしたろう」
何んの意味もないのに、
何の意味もないのに、夢の医者に
心の中で感謝した。