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A&Z 岡部パソコン教室の発信です

エッセイ J.S.バッハ  岡部 朗  (月刊へら鮒1993年2月号より)


私には、へら鮒釣り以外に趣味が
ある。
読書と音楽である。
特に音楽との付き合いは古く、物
心ついた時には、音が私の肌にしみ
ついていたと言っていい。
私の生まれは四国の愛媛県である。
伊予土居町というひどい寒村で、
あまり高くないが、それでも切り立
った荒々しい肌をした山脈が、小さ
い村に覆いかぶさっていた。
そのふもとから坂を下って、北へ
30分ほど歩けば海に突き当たった。
私の家は、その道のりの中程にあっ
て、隣りに小さい小学校があった。
当時、私の家は文房具屋と駄菓子屋
を営んでいたが、回りには学校以外、
全く人家のない一軒屋だった。
私はこの土地に六歳までいた。
母はラジオが好きであった。朝、  
ラジオ放送の始まる時間になると、
必ずスイッチをひねり、終日、床に
入るまで聞いていたものである。
もう40年くらい前のことであるか
ら、当然NHKしか流れる筈はなか
ったが、当時、夕方の4時すぎに「夕
ベのリサイタル」か何かのタイトル
で、クラシック音楽、とりわけて室
内楽が放送されていた。
私はこの放送を毎日のように聞い
たものである。
外でドロンコになって遊びから帰
り、一歩家の中に足を踏み入れた時、
夕暮れの炊事の御飯を焚く臭いに混
じって「音の洪水」が家中を満たし
ていて、その音の迫力に圧倒された
のを、いまだによく覚えている。
音楽は、遊びの興奮の残滓と疲労
を―――枯淡、幻想、夢想のふくよか
な世界で、きれいさっぱり洗い流し
てくれた。
母によると、私はその音楽に聞き
いったまま、しばらくぼんやりとし
ているかと思えば、そのまま寝入っ
てしまうことがよくあったとのこと
である。
いずれにしても、私はこの音楽放
送の無意識のファンであったことに
違いなかった。

6歳の時、大阪に引越してきて、
環境が変わり、一時的に音楽を聞く
こともなくなり、音の快楽を忘れか
けたが、小学校に入ってから、また
音楽に親しむことができた。
私の通った小学校は、閉門の時間
が決められていて、子供達に閉門の
時間を知らせ、帰宅を促すために音
楽を校庭一杯に流す習慣があった。
流れていた音楽はシューマンの子
供の情景の中の「トロイメライ」で、
本来ピアノ曲であるところを、チェ
ロで演奏したものである。
長いこと音楽を忘れていた私は、
最初にこの音楽に接した時、心から
酔いしれてしまった。
音が肌から通ってくるのである。
音そのものが存在物で、空間を飛
び回り、そのこと自体が快楽で、そ
の快楽が、限りなく優しく、限りな
くふくよかで、限りなく冷たかった。
この音楽を聞いてからというもの、
夕方の校庭にたたずむのが私の日課
になった。
学校から帰り、自宅近くで遊んで
いても、この音楽を聞くために、飽
もせず、毎日、わざわざ学校に行き、
音楽が終わるまで校庭にたたずんで
いたものである。
それからどうか......
現在でもやはり音楽を求めている。
音の快楽を、今になっても飽くこ
となく求めているのである。
最近、J・S・バッハを良く聞く。
音の響きが厳格で、限りなく冷た
く、枯淡で音の空間は無限のように
感じられる。
この感動を、とても言葉では表
すことができないが、いずれにして
も、この音楽に接すると、現実の生々
しい世界はきれいさっぱり脳裏から
なくなるのである。
現在聞いているのはCDもあるが、
主にステレオテープで、音楽はNH
KのFM放送 「朝のバロック」から
頂戴したものである。
音楽を聞くのは車の中。とりわけ
て一人での釣行の行き帰りが主になる。
夜が明けきるか切らないかの朝、
太陽が沈むか沈まないかの夕方の時
間がほとんどなのである。
朝夕とも音楽を聞くのには最良の
時である。
このことは、音楽好きの誰もが
認めることであろう。

三山木新池に着いたのが11時10分。
事務所の窓から、柿木和彦氏、吉
川正幸氏が、3号桟橋南寄りにいる
のを確認した。
食事を終え、さっそく道具を担い
で吉川氏の横に入る。
見ると吉川氏は、1.5mのタナで頻
繁に鋭いアタリを出している。 乗る
確率は低いものの、食い気のあるへ
ら鮒が十二分に寄っているようである。
私も1mのタナに決めた。
竿9尺、ウキ 堀作カヤ。道糸バリ
バススーパー1号、ハリス同14号、
30、4㎝。ハリ上グランバリ5号、
グルテンバリ2号である。
4~5投のエサ打ちでウキに変化。
きれいにナジんでいたウキが、心な
しかナジミが遅くなったと思いきや、
トップ中央でフッと戻すような動き
をする。
上ズリに注意を払い、一投一投丁
寧に打ち込むと、ウキの動きはさら
に激しさを増した。
ウキはまるで動物のようである。
動きには自然があり、生命がある。
生々しく、たよやかで、食った時の
アタリは、へら鮒の荒々しさを十二
分に表わす。
このたよやかさと、食った時の
荒々しさとの対称が、まさにへら鮒
釣りの楽しみの核心なのだ。
他に大きな魅力がもう一つある。
それは、へら鮒との掛け引き、い
わば、手品師のようにウキの動きを
自在に扱い、次々食わせていくこと
である。
前者は感性の楽しみであるが、後
者は知性(判断)の楽しみである。
一投ごとの動きを見て、次々変幻自
在の対応をする。そして、決まった
時の喜びは「納得」であり、自分の
判断の実証なのだ。
「へら鮒釣りは奥が深い」と、よく
言われる。
これは、技術的に、ベストはあっ
ても完全がなく、いつまでも到達点
がないことと、へら鮒の状態が、短
期的、長期的に変化し、その状態を
常に追いかけなければならないから
であろう。
楽しみに完全な到達点がないので
あるから、これほど深く味わえる趣

味は、またとないのである。
しかし、だからと言って、へら鮒
釣りは芸術ではない。
美しい自然を見るように、接する
人の主観によって、その評価や感じ
方は、まちまちで良いのだ。
以上の考えから、私は競技だけの
釣り、勝つことだけの釣りには、疑
問を感じざるを得ない。
私は思う。ウキの動きや、へら鮒
の引きに魅力を感じてへら鮒釣りに
入ってもよい。また、若い人のよう
に競技から入っていっても良い。正
直なところ、私も競技の釣りが好き
だ。しかし、へら鮒釣りを深く味わ
い、楽しむということが底辺に流れ
ていなければ決して本人にとって楽
しくないと思う。
無味乾燥な「つらい釣り」に変わ
るのである。
へら鮒釣りは、幸運にも人と人と
のつながり、交流を作る土台があり、
ましてや自然が対象なのである。

深く味わい、総合的にーーー人生を

楽しむように釣りと親しむ。

このことが絶対大切と思う。

 

2年前の3月の雨空の下で、インストラクター

の小池氏と2人きりで釣りをしたことがある。

氏はヘラブナ釣り界を代表する一人

であるが、超一級の名手が、一枚一枚

上がるヘラブナを、ニコニコして
実に嬉しそうに玉網に収めていたの
を強烈な印象として覚えている。釣
りをこれほど深く味わい、これほど
愛しているのかと感動したものであ
った。


エサが合ってきた。入れ食いとま
ではいかないが、コンスタントに釣
れ出した。
ここで、エサを変えたり、ハリス
を変えたり、可能な限り、貧弱な思
考力を絞り出して、更に釣れる工夫
をする。
田中弘雪氏が来て柿木氏の隣に入
った。しばらくすると立石氏やAZ
90の青木雅人氏もわれわれの側にや
ってきた。
人が集まれば、自然に冗談が飛ぶ。
集中攻撃を受けているのは、もっぱ
柿木氏である。
エサ落ち目盛で止めて、ナジミ切
ってすぐに当る理想の動きで、コン
スタントに釣れ続いている。
人々の笑い声は、その合い間を縫
って青空の下を飛びかった。
釣りは楽しく、人々の交歓も極め
て楽しい。
人生がいつもこのようであれば良い。

つくづく思った。


帰りの道は、くろんど池から交野
に抜ける道をとった。
この道は、枚方市の裏に当ってい
て、山を抜け、森を抜ける。うっそ
うと繁る木々の間を、急な坂道を、
上り下りしながら40分ほどの道のり
を経て、1号線に抜けるのである。
三山木を出ると、すぐにステレオ
のスイッチを入れた。
バッハのブランデンブルグ協奏曲
いきなり狭い車内に満ちた。
音は車の中だけにとどまらず、す
ぐさま森の中にあふれ出た。
木々の間に、木々の葉と葉の間に、
冷たい弦楽器の音が飛びかい、ふく
よかな通奏低音が豊饒な森の地面を
這い、フルートの音が限りなく冷た
い響きとなって空間を飛び回る。
音はそのまま存在物となり、みご
と調和を持って私の皮膚に吸いつ
いた。
音はそのまま消えずに「残像」を
残して継続する。
釣行の、心地よい疲労感のある精
神に枯淡な陶酔がとり囲んだ。
気持ち良い、実に気持ち良い。 快
楽は肌を通り越し、骨の髄まで溶か
す勢いである。
日は落ち、太陽の光の残滓が森を
赤く染める。
「美しい。美しい」
幾度も幾度も感動している内に、
国道1号線に出た。